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2021年 歴史委員会…定例会議事録

■2021年7月度 歴史委員会 定例会議事録
 
日時:2021年07月14日(水)18:00~ZOOMによるオンライン会議
出席者:浅川(ZOOMホスト)、犬塚、伊藤、蒲田、阿部、中澤
 
◆議題
犬塚:【米沢武家屋敷の石垣・生垣】
・米沢藩主上杉家は関ケ原の戦い後、会津若松120万石から米沢30万石に減封
・6千ほどの家臣がそのまま米沢に移るが市内に場所がないため郊外に住む
・藩からの禄では生活出来ないため半士半農の生活をする
・芳泉町、石垣町、通町に現在も屋敷が現存
・現在も生活者が居るため外部からの写真しか入手出来ない
・屋敷は間口6-7間、奥行25間、奥の開拓は自由であった
・現在、茅葺の屋根は減少
・直江兼続は下級武士を街道の防御、最上川の治水のため開拓団として、また谷地河原堤防(直江石垣)を守るため芳泉町などに配置した
・通りに面した街路の石垣は川が氾濫した際に流れ込む水を防ぐためのもの
・垣根は敵の侵入を防ぐため棘のあるウコギ(ヒメウコギ)が使用された
・ウコギが使用された起源については不明
・直江兼続の時代に栽培が始まり、9代藩主上杉鷹山がウコギの生垣を奨励したと云われる
・栽培されているウコギは中国原産のヒメウコギ。古く薬用として日本に渡来
・平安時代の「延喜式」にウコギの皮を朝廷に献上した記録がある
・漢方の強壮剤である他、茹でて干して蓄え、冬季・飢饉の際の糧とした
・若葉は和え物の、おひたし、天ぷらなどにする他、茶、ウコギ酒などに使用された
・ウコギ科の植物にはタラノキ、コシアブラ、ウド、チョウセンニンジン等山菜として食用となるものが多い
・生垣の例としては江戸時代の農業全書「園籬(そのまがき)」にウコギ、カラタチ、クコなどが最適と記されている
・棘は敵の侵入を防ぐだけではなく、イノシシ、シカなどの侵入を防ぐ目的があった
・米沢市ではウコギの生垣をまちづくりに採用し、現在その距離は20km、一種だけの生垣延長としては日本一
・若葉は和え物の、おひたし、天ぷらなどにする他、茶、ウコギ酒などに使用された
・ウコギ科の植物にはタラノキ、コシアブラ、ウド、チョウセンニンジン等山菜として食用となるものが多い
      
写真は武家屋敷/戦国観光山形情報局より   街づくりに取り入れられた生垣
 
 
浅川:【米沢武家屋敷の石垣・生垣】補足
・同上武家屋敷調査報告書から法泉町の一例 安達家屋敷図を示し、屋敷内を紹介。
 詳細は、近日中に訪問予定なので、後日整理して報告とのこと。
 
蒲田:【江戸旗本屋敷のゾーニングを中心としたエクステリア調査】
   事例-4:大久保九郎兵衛屋敷の紹介
概要 住所:小川町壬御台所町角126
   敷地:間口19.00間 奥行21.00間 面積399坪
   主屋:123.50坪(築年不詳)
   長屋門の様式、門から玄関へ斜め入り
   役職:御書院番
   家禄:900石
   出典:大久保九郎兵衛住居跡絵図(東京都公文書館所蔵、城郭・侍屋敷古図集)
屋敷の特徴:表座敷前の庭は比較的狭く、むしろ主人居間から見える庭は、表座敷庭の数倍の広さを持ち、横長の広い池と池向こうの稲荷社へ渡る橋が見える
 
伊藤:【渋川凱旋紀念門】
  凱旋(紀念)門とは主に日露戦争(日清戦争も含む)に勝利した記念に全国で多数設置されたようですが、現存するのは静岡県内では唯一、全国でも鹿児島県姶良市の凱旋門とこちらのニヶ所のみのという中々珍しい文化財です。
・名称:凱旋紀念門
・員数:一基
・所有者:渋川六所神社
・所在地:浜松市引佐町渋川三七九五
・明治三九年(1906)三月建立
・構造:煉瓦造り
・大きさ:幅3.2メートル 高さ3.6メートル
(概要)
 日露戦争を記念して、六所神参道の途中に築かれた。
 石造柱脚の上に、石柱を鋸歯飾としたレンガ造りの柱が立ち上がり、レンガ造りの欠円アーチを挟み込む。
煉瓦の積み方はフランス積みとする。
 大型の石製偏額を挟み、上部に江戸切子仕上石材の重厚な笠石を載せる。県内における初期煉瓦積
鹿児島県の山田の凱旋門は石造りのようですが、渋川の凱旋紀念門は石の土台の上に、煉瓦造りの柱やアーチを挟み込んでいます。石柱の部分には、地元の出兵した軍人の氏名と、この門の建造に際して寄付を行った人の名前と金額が記されています。
(https://shizuoka-bunka.jp/triumphal-arch/ より抜粋引用)
  
参道 表より         参道 内側より
 
 
中澤:【1970年代付近のエクステリアの動き】
〇1970年代のエクステリア資材特に金属メーカーの会社設立等の動きを調べ、その一部をメモした。
(門扉、フェンス、屋根、物置)
1955年(昭和30年) 日本文化シャッター(東京 現文化シャッター)が軽量シャッター(波型)の製作販売
1956年(昭和31年) 三和シャッター製作所(尼崎市 現三和シャッター)
1957年(昭和32年) 吉田商事(現YKKap スライドファスナ―の販売、昭和50年エクステリア製品販売)
1960年(昭和35年) 三協アルミ(現三協立山)
同年         沼田金属(スチールフェンス:2010自己破産)
1962年(昭和37年)日東紡が既製品カーポート販売開始
1964年(昭和39年)帝都建鉄工業(スチール製門扉、フェンス)→1978年(昭和53年)倒産
1966年(昭和41年)帝金 バリカー上下式(車止め)を開発し販売開始
1970年(昭和45年)淀川製鋼所(ヨド物置の販売)
同年         ㈱アルテック設立(東京 建築用装飾 1977年スライディング門扉)
1971年(昭和46年)日軽金がアルミ形材の門扉、ブロックフェンス販売(1979年 新日軽、現LIXIL)
1972年(昭和47年)四国化成が伸縮門扉の製造販売
1973年(昭和48年)淀川製鋼所がグレーチングの製造販売
1974年(昭和49年)東洋エクステリア設立(東洋サッシの関連会社)(門扉、フェンスの販売 現LIXIL)
1980年(昭和61年)タカシヨー設立(和歌山市 庭園資材販売)。1986年人工強化材「エバーバンブー」販売
同年         グローベン㈱(名古屋市 人口竹垣の販売)
 
〇その他1970年代の雑誌等より当時のエクステリア資材メーカー名、広告等を確認
・ガーデンライフ別冊に掲載された資材メーカー名の一覧表(1974年)
〇雑誌「建設資料」1977年4月号 掲載文「最近のエクステリアの資材の動向と今後のありかた」
(阿久津紀夫氏:エクステリア施工会社協会理事長の文章を箇条書きにて抜粋した)
・「エクステリアという言葉は最早一般的に普及した言葉である」
・戦後、進駐軍によって持ち込まれたブロックマシンの導入が契機となりコンクリートブロックが生産され発展した
・造園技術の余技ではなく、ブロック職という職種を生み出し、今外構関係の殆どはブロック工事業者の手に委ねられている
・外柵は建物様式の変化で軽いイメージの規格スチール門扉・フェンスの成長が著しく、現在ではアルミ鋳物、スチール製、アルミ製の3つ巴の時代だ。今後の資材の見通しとして、しばらくはアルミ鋳物、スチール製、アルミ製の3つ巴の時代が続く
・門扉・フェンスが半完成品(施工を伴う)である限り、施工店の商品決定権は続く
・門扉・フェンスに加えて物置、勉強部屋、温室、ガレージ等一家団らんの為のもの、スポーツを楽しむためのもの、老人、夫婦の庭など用途別資材が今後必要となる
 
以上
 
◆次回定例会予定:8月18日(水)18:00~オンライン会議にて
 
 
 
■2021年5月度 歴史委員会 定例会議事録
 
日時:2021年05月19日(水)18:00~ZOOMによるオンライン会議
出席者:浅川(ZOOMホスト)、須長、犬塚、伊藤、中澤、蒲田(途中退席)
 
◆5/13(木)開催済み役員会について(議事録を共有掲示しながら中澤より説明)
・総会は6/25(金):オンライン(ZOOM)による
・各委員会のオンライン会議に使用している、ZOOM使用料も委員会費用として認められました。
 
◆議題:「各個人の研究活動テーマ」についての各個人の発表
中澤:「戦後のエクステリア」を、造園業界の推移を組合活動の記録から読み込む中(昭和50年頃まで)。
「60年のあるみ 緑の東京史(Ⅲ)」(東京都造園建設業協同組合創立60周年記念誌)の主な活動を抜粋
 ・戦後の法律整備に伴う、公園、道路緑化、イベント会場等の造園工事を造園会社への発注要望
 ・「単価、歩掛り」などについて各省庁、各行政、公団などと行った記録
 ・建設業の中に「造園業」を認めさせる交渉を、政治に対して「産・学・官」一体となって行った記録
 ・「造園施工管理技士制度」に対する取り組みなど
  *この続き、並びに民間工事を主体とする造園組合についても調べたい。
 
浅川:「武家屋敷から現在の住宅地のエクステリアへの流れを考える」
①事例報告-1大分県杵築市北台、南台(写真・図等の資料を除く)
 □城下町の歴史
  杵築市域は中世初めに大友氏の一族・木付氏が治めるようになり、その後細川氏、小笠原氏などの統治
を経て、正保2年(1645)能見松平氏7代の松平英親(杵築藩初代)が入部。以後、松平杵築藩は、明治維新まで10代にわたって続き、小藩ながらも譜代大名として独自の地位を与えられていた。途中正徳2年(1712)には地名の「木付」を「杵築」へと改めている。
  杵築城を中心として南北の高台に武家屋敷群、聞の谷に商人の町が形成された特徴的な城下町は正保年間に完成したとされる。18世紀末の作成と比定される「杵築城図(金子絵図)」には、杵築城から続く勘定場の坂上「北台」、塩屋の坂上「南台」に家老以下の主立った藩士が屋敷を構えていたとある。
また幕末期に描かれたとされる南台本丁通りの絵図「商台本丁武家屋敷町筋図」にも土塀と門で囲わ
れた武家屋敷らしい道路景観を見ることができる。
 □骨格
  南北に分けられた台地にあり、北部は北台、南部は南台と呼ばれている。杵築藩の上層藩士の居住区で、藩政期の地割を良く残した武家町である。近世武家住宅の主屋と門及び、その形式を受け継いだ近代の住宅を伝統的建造物として良く残し、高低差のある地形を生かして、坂を巧みに配した武家地は、石垣や石段、土塀などによって、雄大で独特な景観を形成している。
 □具体的な屋敷の紹介(以下の二つの屋敷を写真等の資料示しながら説明された
  武家屋敷 大原邸
  武家屋敷 能見邸
 
②事例報告-2 宮崎県日南市飫肥(写真・図等の資料を除く)
(重要伝統的建造物群保存地 昭和52年5月18日選定)(写真・図等の資料を除く)
 □城下町の歴史
  飫肥城は宇佐八幡宮の神官の出で、日向の地に武士団として勢力を伸ばした土持氏が南北朝時代に
築城したのが始まりと伝えられ、時代は下って、室町時代末期の長禄2 年(1458年)、九州制覇を
狙う薩摩の島津氏が、鎌倉時代から日向で勢力を蓄えてきた伊東氏の南下に備えて、志布志城主で
島津氏の一族である新納忠続を飫肥城に入城させた。
戦国初期は薩摩国の戦国大名島津氏の属城で、はじめ築城主の土持氏が治めていた。1484年に日向
中北部を支配する伊東氏が土持氏を裏切り飫肥に侵攻し、当時の当主である伊東祐国が戦死すると、伊東氏の本格侵攻を恐れた島津氏は、領土の割譲と戦の原因となった飫肥城主の交代によって急場を凌いだ。しかし、当主を失った伊東氏の飫肥城にかける執念は凄まじく、その後も伊東氏による飫肥侵攻が断続的に続けられることとなる。
  1567年、念願かなって飫肥城を奪取した伊東義祐(祐国の孫)は、子の祐兵に飫肥の地を与えた。
  しかし、1572年に伊東氏が木崎原の戦いをきっかけに没落すると、日向国全土を島津氏が治めるところとなり、飫肥も再び島津氏の支配となった。飫肥を失った伊東祐兵が羽柴秀吉に仕え九州平定に参加し、九州平定軍の先導役を務め上げた功績により1587年に再び飫肥の地を取り戻し、大名として復帰を成し遂げた。
  以後の伊東氏は、関ヶ原の戦いでは九州では数少ない東軍側として働くなど巧みに立ち回り、廃藩置県で飫肥藩が廃止されるまで一貫して飫肥の地で家名を全うした。天正16年(1588)から明治初期までの280年間飫肥藩・伊東氏5万1千石の城下町として栄えた。
 □骨格
  飫肥藩伊東家の城下町として、江戸時代初期の城下町としての地割りをよく留めている。
  街路幅が当時のまま維持されているために、街路に面した石垣、生垣、門などが保存される結果となった。
  酒谷川に三方を囲まれた城下は、正方形に近い地割りとなっており、飫肥城に近い方から上級家臣、中級家臣、町家、下級家臣の屋敷配置がなされていた。
  武家屋敷は格式に応じて門を構え、飫肥石や玉石の石垣の上にお茶等の生垣で囲まれている。
 □具体的な屋敷の紹介
  旧伊東伝左衛門家 武家屋敷
  上級藩士の武家屋敷で、飫肥城下では最も古い武家住宅である。建築様式から 19 世紀代の建物と考えられる。
  庭園や石垣も往時の姿を良くとどめており、庭園は平成 27 年 1 月 26 日に国登録記念物に登録された
 
 
犬塚:「江戸期の各地域における下級武士の生活」より
   事例として「長野県松代町の武家屋敷街並み」のついての報告(写真・図等の資料を除く)
 □詳細な屋敷を2例紹介
  ・山寺常山邸{平成20年「旧山寺常山氏庭園」として国の登録記念物(名勝地)}
  ・前島家(主屋前面の池、土蔵、三社を配置した敷地は江戸時代の武家屋敷景観を良好に保持)
 □松代街並みの特徴
  ・松代町は街並みの改変が少なかったため昔の町の骨格(城下町時代に形成された格子状型の水路網)がほぼ当時のまま残されている。
  ・松代は泉水網が発達しており、カワ(道路沿いを流れる水路)、セギ(水量の少ない水路、街区の背割線沿いを流れる)、泉水(各戸の庭の池とそれを結ぶ水路)のネットワ-クがつくられている。江戸時代初期は上級武家屋敷地区だけであったが、後期には下級武家屋敷にも整備された。
  ・3系統の水路は隣地に直接流れ数件を経由した後にカワに戻る循環型システムである
  ・農業用水、防火用水、夏の散水、冬の雪落とし、養鯉など多様な生活用水として維持されてきた
   *庭に水を引き入れる水路網の存在する武家屋敷は、他に群馬県甘楽町小幡、福岡県甘木市秋月にもあるが、このような多様なネットワ-クを構成している街並みは松代だけである。
 □松代武家屋敷庭園の特徴
  ・武士の日常の暮らしに密着した生活の庭
  ・泉水には観賞用だけでなく食用としての鯉が飼われた
   *松代では江戸時代から泉水で錦鯉を飼育してきた。金魚の飼育もおこなわれていた。
浅黄鯉(食用の鯉)は松代地方の特産
  ・泉水は洗い場を設け洗濯に利用した
  ・植栽には食用の果樹、カキ、ウメ、アンズなどが植えられた
  ・縁起物としてカシワが植栽されその葉は食べ物を包むためにも利用された
  ・周辺の山並みを景色として取り込んだ借景式庭園
 
須長:報告するまでには至っていないが、引き続き資料を読み込み中。
 
伊藤:新居宿など近場へ写真撮影などに行きたい。
 
次回定例会は、6月16日(水)18:00~オンライン会議にて
 
以上
 
 
■2021年4月度 歴史委員会 定例会議事録
 
日時:2021年04月17日(水)18:00~ZOOMによるオンライン会議
出席者:浅川(ZOOMホスト)、須長、蒲田、犬塚、中澤
 
議題:1.「各個人の研究活動テーマ」についての発表(テーマ名は省略)
犬塚:①馬琴の井戸について
   馬琴の住居跡周辺を歩きながら周辺の高低差を現地確認し、さらに当時の切絵図、及び明治初期の
  地図等資料をもとに神田明神周辺の地形、平川の位置など総合的に考察すると、上水道井戸がなくて
  も堀井戸で水源は確保できたと推察される。
 
  ②弘前市中町の伝統的建造物群保存地区を訪問しての報告
   ・建築時期:寛政年間~文化年間(1789~1818 年)
   ・200~300石の武家屋敷の構成(約40坪の茅葺き住宅、敷地約700㎡)
   ・屋敷を囲むサワラの生け垣が特徴的
   ・何故サワラを採用したのかを引き続き調査していきたい。
 
浅川:兵庫県の町並みの紹介
  ①丹波篠山の武家家屋敷(住宅、門は茅葺き)安間家住宅資料館もその中の一つ
  ②豊岡市 出石城下町の町並み
 
蒲田:旗本 石川子之助邸の研究(東京都公文書館の資料)
  ・住所:駿河台観音坂15
  ・建築時期は未確認
  ・知行:200石~300石
  ・屋敷の広さ(敷地間口17.5間 奥行き20間)
  ・長屋門には、家臣3世帯の住居
  ・接客用の庭は、あまり広くない。
 
中澤:戦後のエクステリアの中で、近年の建設従事者不足を「資格制度の受験者数の推移」で改めて知った。
・1級造園施工管理技士の受験者数(受験者数がこの20年で≒1/3に減っている)
 学科受験者数2000年(8.468人)実地合格者(5,310人)、2020年(2.974人)実地合格者(694人)
・2級級造園施工管理技士の受験者数受験者数が、この20年で≒1/4に減っている)
 学科受験者数2000年(10.442人)実地合格者(6,925人)、2020年(2,448人)実地合格者(1,063人)
・造園技能者の受験者数(1・2・3級合計)は平成25年~平成30年までの6年間の平均受験者数4,755人
 この内平成30年の合格者2,686人(厚生労働省の発表)
・ブロック建築技能者の受験者数(1・2・3級合計)は平成25年~平成30年までの6年間の
 平均受験者数203人、このうち平成30年の合格者数120人(厚生労働省の発表)
・JPEXの建築コンクリートブロック工事士の受験者数(分子:合格者数、分母受験数)(同協会事業計画書より)
 平成27年(29人/30人)平成28年(9人/9人)平成29年(16人/16人)平成30年(16人/16人)
 
*施工管理技士不足を補う為、令和3年度の新試験制度により施工管理技士補制度が始まるとのこと
(経験年数なしでも受験でき、一次試験合格者に1級、2級施工管理技士補との称号が付与される)
 
*造園技能検定受験者も少ないが、エクステリア現場で必須となるブロック積の技能検定受験者が少ない。
 
◆議題-2:4月末までに事務局報告として求められている歴史委員会としての今年度のテーマは、
すでに2月度の定例会で決めた通り、
     1.「各委員ごとのテーマ」(詳細は2月度定例会議事録参照)
     2.小委員会としてのテーマは、発表済み「馬琴の庭を推理する」の訂正、資料の補足」
 
次回定例会は、5/19(水)18:00~ ZOOMによるオンライン会議
 
以上
 
 
■2021年3月度 歴史委員会 定例会議事録
 
日時:2021年03月17日(水)18:00~ZOOMによるオンライン会議
出席者:浅川(ZOOMホスト)、須長、蒲田、犬塚、伊藤、中澤
 
議題:「各個人の研究活動テーマ」についての発表
 
犬塚:テーマ「江戸期の各地域における下級武士の生活」について
①各地域の武家屋敷のリストは色々あるが、自分なりのリストアップをしたい
②馬琴は
・小鳥を飼育していたらしいい、・また薬草も栽培していたらしい。・ぶどうも植えていたらしい。
・江戸時代でも現代同じような流行があったらしい。
 
須長:テーマ「戦後の洋風デザインの造園、エクステリア」
・戦中から戦後について調べると、庭には食料以外は栽培していない、それもサツマイモ、カボチャ等
腹にたまるもので、そ菜類ではなかった。
このように時代によって、食料植物の種類さえ時代によって異なる。
・時間軸によって、エクステリアの要素がどう変化していったかを捉えるのも興味深く大切にしていきたい。(例えばシンボルツリー等)
 
浅川:テーマ1「地方の武家屋敷」について
・桐生の町並み(商家)を見てきた。
・来週は、新居浜及び香川徳島の歴史的町並み(武家屋敷以外を、四月には兵庫県の歴史的町並み(武家屋敷)を見てくる予定。
 
浅川テーマ2「戦後の宅地」
・戦前は、中流階層の分譲住宅であったが、戦後、特に高度経済成長以後は、一般大衆にも手が届く
ようになった。キーワードは「同一ではなく統一」
・先日、E&Gの学生と共に、35年前に手掛けた町並みを見てきたが、35年間の時間の変化を感じた。
 
 
蒲田:「江戸旗本屋敷のゾーニングを中心としたエクステリア調査」
①作図前に江戸の度量衡について整理した。
その結果・1間は、1,818㎜・江戸の間取りは、柱割・柱寸法は4.2寸角をベースに作図した。
②前回取り上げた旗本・池田家屋敷(表四番町、三千石)敷地面積1,307坪の平面図、配置図を
詳細に作図した図面の説明と紹介
③同様に別な例を作図予定。
 
伊藤:興味あるテーマ「戦後のエクステリア特にCADについて」「その他」
・戦後の年表を見ている状態
・日本の住宅には、アルミ材が多い 日本でプレハブ住宅が発展した事との関連性?
・金沢 足軽屋敷 明治以降の一戸建て住宅の原型という説明があった。庭についてはと?れた?け当時の状況残っているのか分からないか?、生垣やシンホ?ルツリーっほ?い玄関脇の木もあり
 
・静岡県焼津市「花沢の里」(江戸時代から明治期にかけての町並みが残る山村集落)の紹介
・渥美半島の住宅形態「納屋が囲む住居」
 
中澤:テーマ「戦後の造園、エクステリア業界推移」
①戦後に発生した巨大地震とブロック塀の構造基準の推移について
昭和25年に制定された、建築基準法施行令で扱うブロック造の「へい」に対する構造基準は、十勝沖地震、宮城沖地震、阪神・淡路大地震などの数年後に改正されて現在の基準内容と推移いている。
②建設業法の改正と資格制度も時代背景と共に変遷推移してきた。
・建設現場の機械化が進む中で、業界の強い要望で昭和35年「建設機械施工技術検定」が始まる
・土木施工技術検定(昭和44年)、管工事(昭和47年)、造園工事(昭和50年)
 
次回定例会は、4月14日(水)18:00~(ZOOMによるオンライン会議)
 
以上
 
 
■2021年2月度 歴史委員会 定例会議事録
 
日時:2021年02月10日(木)18:00~ ZOOMによるオンライン会議
出席者:浅川(ZOOMホスト)、須長、蒲田、犬塚、伊藤、中澤
 
議題:「各個人の研究活動テーマ」についての発表
 
犬塚:テーマ「江戸期の各地域における下級武士の生活」について
・松代、弘前の武家屋敷を文献ではなく、現地踏査をして、野菜畑など身近な生活の庭を見てゆきたい。
・以前に松代、弘前の武家屋敷を見学したが他の武家屋敷も現地踏査し、果樹、薬木、野菜などを植栽した生活の庭を見てゆきたい。
・地元の研究家等の話を聞くことを重ねてゆきたい。
・復元した時の平面図など地元の研究資料を収集してゆきたい。
 
浅川:テーマ1「地方の武家屋敷」について
・各地の武家屋敷のレポートがあるので収集、収録している状況。
・先日は、山口・萩へ行ってきた(現地の写真を紹介)。
・これまで見てきた街並みを地図に落とし込んでいる。
 
蒲田:「江戸旗本屋敷のゾーニングを中心としたエクステリア調査」
・旗本・池田家屋敷(表四番町、三千石)の各庭の分析作業の一例を示す。
・池田家屋敷は、敷地面積は1,307坪あるにも関わらず、接客のための庭園(御庭、庭)はかなり小規模。
・度量衡を確認し、平面図・配置図の作図を行い詳細な分析をおこなう予定。
 
浅川:テーマ2「戦後の住宅地について」
・切り口は、年代、社会状況、車
 
中澤:テーマ「戦後の造園、エクステリア業界推移」未だ年表を作成中で、その切り口を
・敗戦後の政治と社会状況(占領下の暮らし、住宅政策、土地政策)
・進駐軍工事の中の造園工事
・アルミメーカー、レンガ・ブロック製造会社の企業化
・ハウスメーカーの創立と団体設立
*今後は「エクステリア業」「メディア」「CAD」など
 
 
須長:テーマ「戦後の洋風デザインの造園、エクステリア」
・戦後の洋風デザインに影響を与えたと思われる、ワシントンハイツ等GHQ関連の文献調査中。
・作図担当をしたと思われる「小栗 玄」について知りませんか?
(農耕と園芸編集部 わが家の庭 : 作り方の手引 園芸手帖編 誠文堂新光社, 1952 内に
子供本位の楽しい庭 小栗玄 / p34 (0020.jp2)として執筆している、とのこと。
 
詳細は、国立国会図書館、デジタル版 請求記号629.2-Se118w  国立国会図書館書誌ID000000888665
 
 
伊藤:戦後のエクステリア特にCADについて興味がある。
 
 
その他連絡事項
・エクステリア学会の総会は、6月25日(金) 時間は未定(昨年までは、午後1時頃から)
オンラインでも参加できる模様
・活動報告会は、2022年2月開催予定
 
*次回定例会は、3月17日(水)18:00~(ZOOMによるオンライン会議)
 
以上
 
 
 
■2021年1月度 歴史小委員会議事録
 
日時:2021年1月13日(水)18:00~ ZOOMによるオンライン会議
出席者:浅川、須長、伊藤、犬塚、中澤
 
議題;テーマ:『発表済み「馬琴の庭を推理する」の訂正、資料の補完』
 
中澤よりこれまでの作業経過とこれまでの話題点に説明する。
1.井戸の位置(丸型桶、洗い場、釣瓶がついていたか?)
東京都水道歴史館(TEL03-5807-9041は1/11までの休館をコロナの影響で2/7まで休館延長)
ここの資料は、相当古いものまで揃っているようです。(取材は事前の電話でとのことです)
 
2.縁先手水鉢(現データは、つくばい)→縁側から使用できるように
3.池の大きさ
4.南側にまで縁側があったか
5.敷地の大きさ
6.間取りなど
 
犬塚氏より
・東京都水道歴史館へ行って、上下水道の引き込み位置を問い合わせしたい。
・同様に、現地に行って周囲の敷地高低差などを確認したい。
(池を掘ったとき、自然に水が湧き出る、流れ出る要素がなかったか?土質はどうだったか?)
・竜居先生の文章を読むと、イメージが違う。
 
竜居竹之介著 おりおりの庭園論 庭を通して日本の文化を考える 建築資料研究社 1991年
内に滝沢馬琴の庭の池についての記述がある。同書P59-60 "好み"次第で作庭者も交替 の文章より
 
『もちろん息子が釣ってきた魚を放つ目的などもあるから、そう浅くするわけにはいかない。それはよいとしても水の便が悪いからそうそう水位は上げられない。座敷の中から水を見て涼むなどはとんでもない話で、
ちょうど蓋のない穴蔵を見るようだった。夏の渇水期ともなれば水が減るから筧を用いて井戸の水を汲み入れるという騒ぎである。
 おまけに冬は霜がきつくて土が凍てつき、それが原因で池の縁の土が崩れてしまう。これは危ないといって周囲に柵をしたり、芝を植えて土坡を養生すると来ては、手のかかること甚だしい。
 ところがこの池などは庭造伝とまったく見関係で、馬琴自身の好みでつくっているのである。現実の江戸ではこんな思いで不細工な池をつくっていたのに、庭造伝そのものにはこうしたてのかかる池づくりのサンプルはまったく姿をみせていないのだ。
 実証派、考証派として著名な馬琴ともあろうものが、なにか事を起こすについて研究しないわけはなくこの池の場合もテキストらしきものは物色したろうが、"好み"のものに出会わぬまま、自身のデザインで出入りの植木職を駆使してつくりあげたのであろう。
 しかし苦心してつくったこの池、どうも息子の病気の原因らしいということで結局、埋めてしまった。ところが方位学の面から見て、埋め立てた日時がわるかったと知るや、また別の吉方の土を取り寄せて一部埋め立てのやり直しをしたりしている。つまり、馬琴が池をつくるについては、方位学の力を心底、頼んでいたといえるだろう。見方を変えれば、自身のある知識人の馬琴にとっては、庭をつくることよりも、つくること、できた庭が吉凶にどうかかわってくるかの方がはるかに大事だった。「改過筆記」という著書に記されたこの池の事件を見ると、その辺の馬琴の心の動揺が手に取るように伝わってくるのである。・・・・・・・・・』
 
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以上