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2021年 歴史委員会…定例会議事録

 
■2021年12月度 歴史委員会 定例会議事録
 

日時:20211215日(水)1800ZOOMによるオンライン会議

出席者:浅川(ZOOMホスト)、犬塚、蒲田、伊藤、阿部(15分)、中澤

 

◆連絡事項

 活動報告会:2022年2月22日(火)午後1時30分~4時00分、ZOOMにて開催。

 日程調整のお願い、お知り合いに声を掛けてください。

 

◆議題:各委員からの研究報告等(紙面構成の為、発言順不同)

犬塚:【知覧武家屋敷(重要伝統的建造物群保存地区)】

《領主》

・島津家第四代の第三子佐多氏が知覧領主となる(1318)。

・第十六代久達は島津家本家第二十代の子。薩摩藩の城代家老など40年以上勤め島津姓を名乗る。

・第十八代久峯が知覧の街づくりを行い家臣団の居留地と定めた(1732~1772)。

 

 《位置》

・知覧の港は江戸時代、琉球貿易の拠点。琉球文化の影響を受けている。

・知覧は江戸時代には亀甲城の「外城(とじょう)」

 

*薩摩藩は武士の数が多く(明治4年人口比で26%)城下町に武士を集めて住まわすことが困難な

 ため、藩内を113の「外城」に区分けし、それぞれに政治・経済の中心となる「麓(ふもと)」

 と呼ばれる集落を置き武士を配置させて行政・防衛を行わせた。

 知覧はその代表的なものの一つ。

 

《武家屋敷》

・現在7軒の庭園が国の名勝。屋敷のみの一軒を加え8軒が一般公開。

・街並みの延長700m。

・通りは曲線形とし敵に狙われない工夫が見られる。(写真-1)

 写真-1:武家屋敷の街並み「南九州市HPより」

 ・生垣にイヌマキを使用

その理由は敵がよじ登れない、中から外の様子が伺えるが外からの視線を遮断。

・生垣の2段構成、天端を曲線、落葉樹の混合などデザインに工夫。

(写真-2、写真3)

 

写真-2:イヌマキ生垣(2段構成、落葉樹を混ぜる)    写真-3天端は曲線とする等変化をつけている

 ・門の真正面に「屏風岩」を配置(写真-4)

写真-4 西郷恵一郎氏邸門の真正面に屏風岩(「ふるさと元気ネット」より

  敵の矢などで狙われない、視線を遮る、一気に攻め込まれない等の目的。沖縄のヒンプンの

 影響

・道の三叉路に「石敢当(せっかんとう)」を配置。

 沖縄で見られる魔除け。

 

《屋敷の配置》

・建物には二つの玄関があり、男玄関は居住スペ-スの「オモテ」に接続、女玄関は炊事場のある

 「ナカエ」に接続。通常は二つ独立した建物であるが、知覧では二つが合体している。

 (知覧型二ッ家)(写真-5)

写真-5 知覧型二ツ家

 

《庭園》

・庭園は枯山水が6軒、池泉式が1軒。(写真-7)

 

写真-6 森重堅邸アプロ-チ         写真-7 枯山水の庭

 ・敷地は広く裏山、畑などがあり半農半士の生活であった。

 

蒲田:【江戸旗本屋敷のゾーニングを中心としたエクステリア調査】

   事例-8:土屋忠兵衛 屋敷の紹介

   出典:土屋忠兵衛 元屋敷絵図

   (東京都公文書館所蔵、至文堂 城郭・侍屋敷古図集集成 江戸城II 侍屋敷)

   家禄高:700石(御小納戸)

   屋敷所在地:小川町今川小路番外8

   普請時期:未確認

   特記事項:作図は城郭・侍屋敷古図集記載の図面から行った。

   敷地間口:22.00間(計算値)/CAD作図値22.00間。

   敷地奥行:32.75間(計算値)/CAD作図値32.03間。

   敷地面積:720.50坪/CAD作図値704.5坪。

   主家面積:136.75坪。          (図は大きい為、議事録編集都合上省略)

 

*屋敷の特徴:これまでの事例と異なる点として、中坪(庭)もありながら、接客用庭園部

 面積が広い。

 かつ、主人の居間からの御庭が広く、各土蔵の内庭周辺も広い。

*これまでいくつかの事例を見ると、その類型化が図れる。

 さらに、そのお手本となるべき資料があったのではないかと考えられる。それを探しても

 行きたい。

 

他、各個人のテーマについての発言無し

 

*阿部氏は、定例会が水曜日では、参加しにくい。(水曜日が、会社のノー残業日に重な)

 とのこと。

 

◆活動報告会での発表について

・持ち時間20分程度、全員発表はできない、どなたかにお願いする。

・発表者のテーマ中心にするが、各個人テーマで活動をしているので、その内容を簡略に説明する。

・その内容を、1月度の定例会に提示する。

 

◆次回定例会は、1月26日(水)18:00~オンライン会議にて

 

以上

 
 
 
■2021年11月度 歴史委員会 定例会議事録
 

日時:20211117日(水)1800ZOOMによるオンライン会議

出席者:浅川(ZOOMホスト)、犬塚、蒲田、伊藤、山澤、中澤

 

◆議題:各委員からの研究報告等(紙面構成の為、発言順不同)

犬塚:【角館武家屋敷(重要伝統的建造物群保存地区)について】

(1)佐竹北家について

・1656年北家佐竹義隣(よしちか)が角館地方の城代(3600石)となり「所領」として支配。

・大納言高倉永慶の二子(のち義隣)が北家を相続して再興。二代の室も三条西家の娘。

・故郷を懐かしみ角館に「小倉山」「賀茂川」などを命名。京文化の影響を強く受ける。

・「所領」とは久保田藩(秋田藩)の統治機構の職分で行政・警察・裁判権を付与された。

・北家時代の初期、農業、林業、手工業が発達。商業活動も活発化し仙北部の政治・経済・文化の中心となる。

(2)主な武家屋敷(現在6家が公開されている)

・「青柳家」は上級武士の住まい。敷地は3000坪。47石~104石。

・「小野田家」、「川原田家」、「石黒家」。

・「岩橋家」は中級武士66石~86石。

・「松本家」は下級武士 門柱は柴垣と柱2本(写真ⅳ)。

 写真i.黒板塀トモミノキ

(3)屋敷の配置

・建物は通りに面せず、奥に配置されている。

・通りに面して黒板塀、建物との間はモミノキ等の生育している庭園(写真ⅰ)。

*モミノキ、アカマツ、キタゴヨウ、サワラ等の針葉樹。

・モミノキの植栽以前にシダレザクラが植栽されていた。

・黒板塀の奥にはシダレザクラが植栽(写真ⅱ)。樹齢100年以上の木が162本(天記念物)。

・客をもてなす「ザシキ」の縁側は板縁と土間の二重構造となっており外側に雨戸が付く雪国特有の形式となっている。「土縁」と呼び冬の寒さ解消、明かり取り等の効果がある(写真ⅲ)。

(4)庭園

*この樹木群は観賞のためではなく防火用、防雪、武家の格式のためと云われている。

・庭には建物に向けて稲荷の洞がある。五穀豊穣を祈るためとのこと。なお建物には米蔵が接続されている。

・下級武士の屋敷、その他黒板塀のない場所にはモミジの生垣が設置されている(写真ⅴ)。

*市に確認したところ生垣を設置する場合にはモミジを使用するよう指導しているとのこと。重伝建地域の実施計画書に記載。

・屋敷の裏側には畑を配置していたところもあったとのこと。

・「小田野家」は門から玄関までドウダンツツジが列植されている。また庭園は一面のクマザサとなっている。

(5)角館で見た有用樹

・田町武家屋敷:コシアブラ、生垣(ウコギ、アケビ)、キササゲ、サンショウ、ガマズミ、オニグルミ、タラノキ。

・内町武家屋敷:カシワ、キササゲ、ハナズオウ、ナツメ、ザクロ、クロモジ。

(6)写真、他の資料

     写真ii.黒板塀とシダレザクラ

    

     写真iii.土縁と庭園             写真iv.門柱とトリキ(黒モジ)の柴垣

川原田家平面図

「板塀とモミジの生垣について」《秋色・武家屋敷 富木耐一》

「板の塀を持てる人はごく少なく、大多数は生け垣であり柴垣だったし、隣との境界は柴垣が設けられていた。それを補強するために間に「山もみじ」が植えられたが、背丈が高くならないように芯を摘み枝を切りながら、垣根にふさわしいように手入れされてきた。

明治以降、身分を表す板塀が自由に作れるようになると柴垣が取り払われた。山もみじは塀の内側に取り残されて、本来の枝を精一杯伸ばし、摘まれた芯はその横から生命の証しを天に向けて存在を主張し始めた。

武家屋敷の秋を彩るもみじに、こんな皮相な物語があるのもまた楽しい。」

 ホットアイあきた(通巻351号) 1991年10月1日発行

*富木耐一氏は角館生まれ。角館町役場に勤務。教育委員会にて重要伝統的建造物群保存地区整備に関わる。昭和62年角館公民館長で退職。秋田県民俗学会理事

 
蒲田:【江戸旗本屋敷のゾーニングを中心としたエクステリア調査】

 事例-7:花房熊八郎屋敷の紹介

 出典:花房熊八郎_屋鋪絵図(東京都公文書館所蔵、城郭・侍屋敷古図集)

 家禄高:1,000石

 屋敷所在地:表二番町番外47

 普請時期:未確認

 特記事項:作図は城郭・侍屋敷古図集記載の図面から行った。

 作図は城郭・侍屋敷古図集記載の図面から行った。

 敷地間口:16.50間(計算値)/CAD作図値17.50間。

 敷地奥行:26.00間(計算値)/CAD作図値27.03間。

 敷地面積:541.00坪/CAD作図値473.11坪。

 主家面積:107.25坪。

 *屋敷の特徴:これまでの事例と異なり、接客用庭園は中庭が中心で狭い。中坪との表記。

 主人の親の隠居部屋を増築した為、大屋根にならぬように中庭にしたのかは不明。

 (図は大きい為、議事録編集都合上省略)

  写真.ヤマモミジの生垣

 

伊藤:【秋葉街道、松下家の紹介】

 遠州から諏訪へ向かう、中央構造線が走る塩の道、秋葉街道沿いに残された古民家です。

 所在地:長野県下伊那郡大鹿村大字大河原1665番地

 建築年代:文政三年(1820)

 https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/102/1000

 

 

浅川:【武家屋敷から現在の住宅地のエクステリアへの流れを考える】

 最近訪問した長崎県の武家屋敷、写真によるレポート

(1)旧?村藩内に残る武家屋敷

 旧楠本正隆屋敷(?崎県?村市玖島2丁?291)明治3年

(2)神代小路(こうじろくうじ)武家屋敷 長崎県雲仙市神代丙132-1

(10月度議事録掲載 (2)事例紹介-2 写真報告

  

旧鍋島家等の写真紹介

(3)島原市鉄砲町の写真

 10月度議事録掲事例紹介-3 写真報告

・石積、石塀の写真・塀の上になっている小さな石 ・西入武家屋敷・東入武家屋敷・果樹等の写真

  

(4)その他平戸の紹介(オランダ塀、ヒラドツツジの原木、タマシダ、オオイタビ等の写真)

   

 

中澤:【戦後のエクステリアの歴史】

 定例会用資料として「エクステリアとブロック業界について」タイトル名で歴史委員会メンバーへ配信済。同上の配信した資料にて、約25分説明しました。

 

(内容について、議事録の構成上、重複しますので省略します)

 

山澤:【近況報告】

・博士課程論文を提出した。(内容は、沓脱石について)

・造園学会でも発表済(高評価を得た)

・近いうちに、当委員会にも参加できる。

 

◆次回定例会は、12月15日(水)18:00~オンライン会議にて

 

以上

 
 
■2021年10月度 歴史委員会 定例会議事録
 

日時:20211013日(水)1800ZOOMによるオンライン会議

出席者:浅川(ZOOMホスト)、蒲田、伊藤、内田、中澤

 

◆議題

浅川:【武家屋敷から現在の住宅地のエクステリアへの流れを考える】

①事例紹介-1(写真・図等の資料を除く)

弘前武家屋敷重要伝統的建造物群保存地区

写真で街並み既存の武家屋敷門周りを紹介

黒石中町 重要伝統的建造物群保存地区(大きな商家の町並み)

□場所:青森県黒石市中町

 江戸時代の中町には、造酒屋、しょう油屋、みそ屋、米屋、呉服屋などの商店が、前町には、旅籠が数軒立ち並んでいたと言われている。これらの町並みの特色は、商家主屋の道路側に「こみせ」を設けていることである。「こみせ」の建築年代についての明確な資料はないが、慶長16年(1611)に津軽信枚(のぶひら)が弘前城を築いており、城下町の形成と共に「こみせ」もあったため、信枚の子である信英も父に真似て黒石の商人町に「こみせ」を作らせたと考えられる。

②事例紹介-2(写真・図等の資料を除く)

神代小路(こうじろくうじ)重要伝統的建造物群保存地区

□場所:長崎県雲仙市神代小路

 佐賀鍋島藩神代領領主・鍋島氏の、歴史ある佇まいを見せる鍋島陣屋跡。

 この鍋島陣屋跡を中心とした神代小路地区は、

 国の重要伝統的建造物群保存地区に選定。

 屋敷を守る矢竹の生垣、つぶて石を載せた石垣。

 家々を潤しながら、まちなみの中を水路がめぐります。

 ひときわ目を引く切石亀甲積の石垣から続く鍋島邸の長屋門。

 その北側には唐破風造りの玄関が印象的な主屋が建ち

 万延元年(1860)建築の隠居棟と明治・大正期の近代和風の

 書院座敷が相まって、旧領主の屋敷に相応しい威厳を醸し出している。

③事例紹介-3(多くの写真・図等の資料を除く)

長崎県島原市鉄砲町

□島原城の西側に広がる武家屋敷地は、鉄砲を扱う藩士が居住していたことから鉄砲町とも呼ばれています。下ノ丁の道路中央を流れる用水をはじめとし、武家住宅が残る歴史的景観を今日に伝えている。

 鉄砲町は、元和4 年(1618 年) から始まる島原城の築城とその城下町建設に伴って成立。

 当初は、下ノ丁、中ノ丁、古丁の三筋でしたが、寛文9 年(1669 年)に松平氏が島原藩主となった後、下新丁、上新丁、新建、古丁新建が建設された。

 鉄砲町の東側には、江戸丁がありますが、これは、文久3年(1863年)から慶応元年(1865年)にかけて、江戸詰めの藩士が島原へ帰任(きにん)したことに伴い、成立。

 肥前島原松平文庫所蔵『島原藩士屋敷図』には、元治2年(1865 年)の鉄砲町の様子が描かれ ており、宅地の総数は 699 筆を数えます。

 江地では鍵型の屋根とする例が多く、西側宅地はT字型とする例が多いということです。(下図参照)戸期の住宅建築、すなわち武家住宅においては、南北に走る通りの東側宅地と西側宅地の住宅で、東側宅地では

 鍵型の屋根とする例が多く、西側宅地はT字型とする例が多いということです。(下図参照)

④事例紹介-4(写真・図等の資料を除く)

鹿島市武家屋敷

□場所 佐賀県鹿島市高津原

□城下町の歴史

 佐賀藩の支藩である鹿島藩は初代・鍋島忠茂から9代・直彝(なおのり)まで常広城にいたが、鹿島川と塩田川の間の沖積地のため水害を受けることが多かった。このため直彜は文化元年(1804 年)に幕府と本藩に移転を願い出て、翌文化2年(1805年)5月に許可を得た。

 常広城の居館を移転し、文化4年(1807年)に鹿島城は完成している。江戸時代、鹿島鍋島藩領であった。

 文化4年(1807年)高津原に鹿島城が築かれ、現在の新町をはじめ、周囲に城下町が形成された。

 明治7年(1874 年)、佐賀の乱に呼応した旧藩士らによって、

 鹿島城に火が放たれ、多くの建造物が焼失したが遺った赤門や大手門、武家屋敷 棟門、城の遺構が歴史を今に伝えている。

 その後、鹿島城址の一部は高等学校となり、 かつての庭園部分は旭ヶ岡公園として整備された。ここでは藩政期に始まった花見行事が現在も継承されており、多くの市民に親しまれている。

 

 城址の南側を流れる中川の対岸には琴路神社があり、例大祭には鹿島城址周辺から琴路神社までの市街地を神輿や獅子舞が華々しく巡行する。

□骨格

  北鹿島の常広にあった鹿島藩の城が、現在の位置に移転して鹿島城となった。「鹿島城」は通称 であり、正式には「高津原陣屋」、「高津原屋敷」、「鹿島館」などの名称で呼ばれる。幕末維新期 (江戸時代末期から明治初期)に作成された『元鹿島県陣屋絵図』に見られる鹿島城のあった区 域一体には、土塁や堀、稲妻型に折れ曲がった道など、かつての遺構が残っている。城のあった 位置には、現在の佐賀県立鹿島高等学校が建っており、そのほか、城跡の遺構をはじめ、旭ヶ岡公園、赤門、大手門、武家屋敷棟門、松蔭神社などの建造物が城址を構成している。

中澤:【戦後のエクステリアの歴史】

 

 後のエクステリアは「空洞ブロック」を抜きには考えにくいので、その歴史をエクステリアの視点で調べている途中です。特に以下の3つ疑問について、資料を探しています。

①戦後のブロック業界の歴史について(空洞ブロックから、化粧ブロックへ転換過程)

②次に多くのブロック製造メーカーが1952年前後に操業しているのはなぜか?

③群馬県にブロック製造メーカーが多いのはなぜか?

以上について、中間報告をした。

 

その他

出席した各委員の近況報告がありました。

 
以上
 
 
◆次回定例会は、11月17日(水)18:00~オンライン会議にて 
 
 
 
 
 
■2021年9月度 歴史委員会 定例会議事録
 

日時:20210915日(水)1800ZOOMによるオンライン会議

出席者:浅川(ZOOMホスト)、犬塚、蒲田、伊藤、中澤

 

◆議題

犬塚:【島原市武家屋敷】近い将来実施調査の為の予備知識として

◇地理

・長崎県島原市鉄砲町、下級武家屋敷は島原城の西側・雲仙普賢岳側に

配置されている。

◇歴史来実施調査の為の予備知識として

◇地理

・長崎県島原市鉄砲町、下級武家屋敷は島原城の西側・雲仙普賢岳側に

配置されている。

◇歴史

・1618年 松倉氏が入封(4万石) ・1624年 築城(武家屋敷共)

・1637年 島原の乱         ・1663-64年 雲仙普賢岳の大噴火

・1775年 松平氏が浜松から転封(7万石)

*下級武家各屋敷のそれまでの低い石垣の上に嵩上げし高石垣を築く

・1792年 雲仙普賢岳の大噴火(死者15,000人)

・1991年(平成3年)普賢岳の大噴火(火砕流発生)

◇武家屋敷

・70石以下の下級武家屋敷(全体700戸)

・屋敷は90坪(建物は25坪)・現在3軒の屋敷が残る

◇武家屋敷の庭

・藩命で果樹を植栽(梅、柿、蜜柑類、枇杷、桃、柚等)

・屋根の葺き替えに使用する真竹の植栽

◇街並み

・現存する武家屋敷「下の丁」が町並み保存地区(長さ406.8m 幅5.6m)

・道路中央の水路(生活用水)

・両側の石垣の材料は、普賢岳の火山岩

*石垣を嵩上げした目的が不明(屋敷の敷地境界が明確でないのは良くない、   

 窮乏している町民を救う目的の公共事業と云われているが?

 普賢岳噴火に対する防災の目的もあったのではないか?)

◇湧水庭園

 ・島原城の南側「鯉のおよぐ町」湧水庭園「しまばら水屋敷」、「四明荘」

  

 中央に水路、両側に高い石垣                  高い石垣(線より上に嵩上げした)

 

蒲田:【江戸旗本屋敷のゾーニングを中心としたエクステリア調査】

事例-6:井関新太郎邸

概要  住所:飯田町九段坂下82

   家禄高:未確認

    敷地:間口14.00間 奥行25.75間 面積360.50坪

主屋面積:88.25坪(築年未確認)

 出典:井関新太郎元屋舗絵図(東京都公文書館所蔵、城郭・侍屋敷古図集)

屋敷の特徴:

・長屋門に正対する玄関の真裏に中坪があり、その中坪は表座敷(御書院)には面せず、内庭的空間

・玄関から中坪の横の畳廊下で大回りに表座敷(御書院次之間、上之間)へ進む

・表座敷前庭の正面には土蔵もありは比較的狭い

*玄関の近くまたは道路側に面して表座敷ある一般的な武家屋敷と異なり、玄関の真裏に表座敷がある構成

 

中澤:【戦後のエクステリア歴史】

 8月には旧LIXILWEBカタログから1970代~2000年アルミメーカー(エクステリア資材)の推移を見たが、同TOEX1979年カタログには、化粧ブロックを確認できる。すなわち1970年代には化粧ブロックの生産、販売がされていたことになる。

門袖や塀の素材として多用されていた化粧ブロックについて調査をすることにした。下の文章はその一例です。

 『1970年頃から、米国で普及していたスプリットブロック、各種溝付き化粧ブロックを応用する展開が出始めた。外構製品として広く用いられ、表面を割肌模様に仕上げるスプリットブロック、大谷石型の大型サイズ、着色、種石を用いて表面を研磨・切削・ショット仕上げ等をして付加価値を高めた製品がある。表面に化粧が施され、かつ、強度、品質にも優れる補強コンクリートブロック造建築物に用いるブロックとして、1979 年に、JIS A 5407(建築用構造用化粧コンクリートブロック)として公示された。1994 年の改正において、JIS A 5406(建築用コンクリートブロック)に統合されている。』(全国建築コンクリートブロック工業会:55 年のあゆみ, 2007)

 以上

 

◆次回定例会は、10月13日(水)18:00~オンライン会議にて

 
 
■2021年8月度 歴史委員会 定例会議事録
 

日時:20210818日(水)1800ZOOMによるオンライン会議

出席者:浅川(ZOOMホスト)、犬塚、蒲田、伊藤、中澤

 

◆議題

犬塚:【御家人の庭(大久保百人町)】

 下図は、江戸名所図会-60「大久保の映山紅(きりやまつつじ)」

 絵中文「大久保の映山紅は弥生の末を盛りとす。長丈余(3m)のもの

数多ありて、其の紅艶を愛するの輩とくに群遊す。花形微小といえども、

叢(むらが)り開て枝茎を蔽す。更に満庭紅を灌ぐが如く、夕日に映じて

錦繍の杯をなす。此辺の壮観なるべし」とある。

 大久保百人町は、御家人で鉄砲を扱う技術を持った鉄砲同心たちが現在の新宿百人町に組屋敷を与えられた。鉄砲組には同心百人が配属され鉄砲組百人隊と呼ばれた。天保年間(1831~1845年頃)内職として組屋敷の広い敷地につつじの栽培が広がった。貧乏御家人の庭の一形態である。集団で栽培が行われ大規模なつつじ園となる。やがて評判となり江戸の名所になった。

 

(組屋敷とは)

・御家人の屋敷は、多くは組屋敷と云い組頭のもとに一箇所に屋敷をつくった。役職単位で土地を与えられこの地区を「大繩地」という。

・百人組には甲賀組、伊賀組、根来組、二十五騎組の四組があり、百人町は鉄砲百人組の一つ伊賀組の大繩地。

(御家人とは、将軍にお目見えが許されない下級武士)

(組屋敷の広さ)

・百人町には組頭(旗本)1人、与力25騎、同心100人の構成。

・屋敷の広さは同心1200坪/人、与力2000坪/人。(町与力は、新参130俵、古参230俵で、概ね人300坪/人)。

(組屋敷の構造とその広さの理由)

・百人町は組屋敷の中央に道路、東西に木戸を設け、道を挟んで左右に20~30の拝領屋敷が並び、

広さは15万2千坪あった。

・同心屋敷は間口10間(18m)、奥行200間(360m)面積約6480㎡。

・江戸城防御の拠点として間口を狭くし、多くの敵が一度に侵入出来ない構造とした。

・奥に駐屯地、射撃場などの役割がある空き地。

・敷地には多くの空地があり早くから作物をつくる内職が行われた。

(御家人の内職)

甲賀組-傘張り。伊賀組-つつじ栽培。根来組-提灯づくり。御徒組-金魚、朝顔栽培

(門の形)

・両扉の冠木門。両扉は100石以上、100石未満は木戸。30俵2人扶持という御家人では門のない家に住んでいた者が多い。

(つつじ栽培には二つの説がある)

①火薬をつくる材料の木炭にツツジが良いとのことでツツジを植えたのが始まりとの説

②木炭、硫黄、石灰など火薬の材料が豊富にありツツジ栽培に良いとの説

・材料の仕入れを一括で行う。作業を分業化する

 

蒲田:【江戸旗本屋敷のゾーニングを中心としたエクステリア調査】

事例-5:井上藤左衛門上ゲ屋敷

概要  住所:裏六番町横町82(現千代田区4番町)

   家禄高:300俵、御書院番

    敷地:間口32.00間 奥行28.25間 面積904.00坪

主屋普請時期:170.50123.50坪(築年未確認)

 出典:井上藤左衛門_上ゲ屋敷絵図(東京都公文書館所蔵、城郭・侍屋敷古図集)

屋敷の特徴

・録高に比して、屋敷が広い

・二方向の長屋門の内部は、家士(8人)、厩等がある。

・表座敷前の庭は比較的狭く、内庭が広い。

・内庭の外(垣根の外)には、畑として使用されたと思うわれる部分も見える。

 

 

浅川:【江戸時代及び明治時代の武家屋敷から門と塀柵の歴史探る】

 調査事例:上山藩武家屋敷(場所:山形県上山市鶴脛町1丁目7)

 

 上山城は出羽田南村山郡上山の台地上に築かれた平山城で、この台地の別称にちなんで「月岡城」とも称した。この地での築城は、天文四年(1535)の武永義忠に始まるといわれるが定かでない。

 その後最上氏、松平氏、蒲生氏、土岐氏と移り、土岐氏以後は一時幕領となり城郭内の櫓・建物等は破却された。元禄十年(1697)に三万石で入封した藤井松平氏は廃藩まで在城したが、天守が再建されることはなく、石垣・塀・御館等を整備するのみにとどまった。

□町割

 城の下南西側は町割りされ、羽州街道の宿場町としてまた温泉街として栄えた。城の西・北側は武家屋敷となり、仲丁通りには藩の要職にあった家臣が居住していた。

□武家屋敷

 現存している家屋は、茅葺屋根、鉤型の曲屋で、玄関と通用口とを別にする武家中門造りの建築様式であり、4軒とも約200年前の建造と推定され、屋敷の周りには土塀または土塁が築かれていた。藤井松平時代に西山~八幡堂堰で引水して作られた庭園の池は風致を添えると共に、防火用水ともなっていた。

〇旧曽我部家

 上山における曽我部家は、初代からこの地に居住し徒頭、大目付と代々要職にあった。当時の敷地は約2000㎡でその他に城内にも土地を有していたという。間取りは一部改造されているが、玄関の間の上手の槍掛場・刀置場・上段などは、いかにも武家の居宅らしいものがあり、勝手口側4m程の所にある「釣瓶(つるべ)井戸」は近年まで使われていたものである。特にこの建物の表玄関は武家中門造りで、中級武家屋敷の様式をよく表わし、屋敷には柿が植えられ、庭園には築池を配し樫・松・桜・梅擬やつつじなどもあり、黒竹や桧葉の生垣を廻らし、風情を添えている。

〇山田家

 山田家は、1697(元禄10)年頃には藤井松平氏の家臣として、現在の屋敷に居住していたことが分かるが、山田家は、代々惣領席・馬廻席のほか、寺社・町・郡・勘定等の各奉行、者頭・大目付を勤め特に藩主の御側勤めや随伴役が多く、江戸と大坂、あるいは上山と転勤し、国元との聞を頻繁に行来している。五代の源次郎は、1863(文久3)年に弓道日置流射術師範となり、幕末の1865(慶応元)年には教導方、藩校明新館の都講にも昇進している。戊辰戦争にも出役し、藩政改革のときには官制上山藩民務局の勧農司事を勤めた。屋敷には松の大樹が有ったことから、この本邸を「松陰亭」と愛称し、庭園には高野槙やつつじ・さるすべリなども有って風情を添え、武家屋敷としての面影を遺している。

〇三輪家

 三輪家当主は、代々側用人、参政等藩の要職を務め、藩主の随伴役で上山と江戸、あるいは大坂と慌ただしい勤務となり、上山に定住したのは1852(嘉永5)年十月であるが、翌年には惣領席に任ぜられ、藩校明新館の教師として勤務をしている。庭園には北面に築池を配し、松や縦(もみ)の木につつじなどもあって武家屋敷の風情を添えた佇まいを偲ばせている。

〇森本家

 森本氏は、代々藩主の随伴約が多く、江戸・上山・大坂と転勤し、上山に定住したのは1706(宝永3)年の春であり、現在の屋敷に引っ越したのは文久年間(1861~63)以降といわれ、一部模様替えはあるものの、先住者から引き継いで居住している。十一代秀晋は藩校明新館の教師や藩主の訓育掛を勤めるなど、漢学の造詣も深く、文筆にも長じていた。秀晋はこの本邸を「錦繍亭」と愛称し、庭園を「黄華園」と命名し、早春の黄花を好んで鑑賞したと伝えられている。

 

中澤:【戦後のエクステリア歴史】

旧LIXILWEBカタログから見た1970代から2000年へのアルミメーカーのエクステリア資材の推移。

・1985年(TOEX モダンシリーズの門柱に相当する部位にインターホン門柱、ポスト門柱の販売。後のファンクションユニットへ)

・1986年(新日軽 跳ね上げ式門扉:「ウィングゲート」の販売

・1990年(TOEX 独立型「ファンクションユニット」販売)。ウッドデッキ始め木質製品の販売:ガーデニングブームとの相関?

・1993年(TOEX テグラシリーズなど乾式工法の既成品門柱の販売(職人不足の影響?)

・2000年(新日軽 木目調樹脂(木樹脂:アルミと樹脂の複合材、リサイクル材使用デッキなど自然木から脱却)

 

伊藤:【清水邸庭園の紹介】(静岡県掛川市)

 清水家は、江戸元禄期に廻船問屋を営み、藩の御用達を勤めるなどして栄えた旧家。

 屋敷の南に広がる回遊式庭園は江戸中期の造営。湧水を取り入れた名園。

  観光サイト.kakegawa.shizuoka.jp)

 

以上

 

◆次回定例会は、9月15日(水)18:00~オンライン会議にて

 

 

 
■2021年7月度 歴史委員会 定例会議事録
 
日時:2021年07月14日(水)18:00~ZOOMによるオンライン会議
出席者:浅川(ZOOMホスト)、犬塚、伊藤、蒲田、阿部、中澤
 
◆議題
犬塚:【米沢武家屋敷の石垣・生垣】
・米沢藩主上杉家は関ケ原の戦い後、会津若松120万石から米沢30万石に減封
・6千ほどの家臣がそのまま米沢に移るが市内に場所がないため郊外に住む
・藩からの禄では生活出来ないため半士半農の生活をする
・芳泉町、石垣町、通町に現在も屋敷が現存
・現在も生活者が居るため外部からの写真しか入手出来ない
・屋敷は間口6-7間、奥行25間、奥の開拓は自由であった
・現在、茅葺の屋根は減少
・直江兼続は下級武士を街道の防御、最上川の治水のため開拓団として、また谷地河原堤防(直江石垣)を守るため芳泉町などに配置した
・通りに面した街路の石垣は川が氾濫した際に流れ込む水を防ぐためのもの
・垣根は敵の侵入を防ぐため棘のあるウコギ(ヒメウコギ)が使用された
・ウコギが使用された起源については不明
・直江兼続の時代に栽培が始まり、9代藩主上杉鷹山がウコギの生垣を奨励したと云われる
・栽培されているウコギは中国原産のヒメウコギ。古く薬用として日本に渡来
・平安時代の「延喜式」にウコギの皮を朝廷に献上した記録がある
・漢方の強壮剤である他、茹でて干して蓄え、冬季・飢饉の際の糧とした
・若葉は和え物の、おひたし、天ぷらなどにする他、茶、ウコギ酒などに使用された
・ウコギ科の植物にはタラノキ、コシアブラ、ウド、チョウセンニンジン等山菜として食用となるものが多い
・生垣の例としては江戸時代の農業全書「園籬(そのまがき)」にウコギ、カラタチ、クコなどが最適と記されている
・棘は敵の侵入を防ぐだけではなく、イノシシ、シカなどの侵入を防ぐ目的があった
・米沢市ではウコギの生垣をまちづくりに採用し、現在その距離は20km、一種だけの生垣延長としては日本一
・若葉は和え物の、おひたし、天ぷらなどにする他、茶、ウコギ酒などに使用された
・ウコギ科の植物にはタラノキ、コシアブラ、ウド、チョウセンニンジン等山菜として食用となるものが多い
      
写真は武家屋敷/戦国観光山形情報局より   街づくりに取り入れられた生垣
 
 
浅川:【米沢武家屋敷の石垣・生垣】補足
・同上武家屋敷調査報告書から法泉町の一例 安達家屋敷図を示し、屋敷内を紹介。
 詳細は、近日中に訪問予定なので、後日整理して報告とのこと。
 
蒲田:【江戸旗本屋敷のゾーニングを中心としたエクステリア調査】
   事例-4:大久保九郎兵衛屋敷の紹介
概要 住所:小川町壬御台所町角126
   敷地:間口19.00間 奥行21.00間 面積399坪
   主屋:123.50坪(築年不詳)
   長屋門の様式、門から玄関へ斜め入り
   役職:御書院番
   家禄:900石
   出典:大久保九郎兵衛住居跡絵図(東京都公文書館所蔵、城郭・侍屋敷古図集)
屋敷の特徴:表座敷前の庭は比較的狭く、むしろ主人居間から見える庭は、表座敷庭の数倍の広さを持ち、横長の広い池と池向こうの稲荷社へ渡る橋が見える
 
伊藤:【渋川凱旋紀念門】
  凱旋(紀念)門とは主に日露戦争(日清戦争も含む)に勝利した記念に全国で多数設置されたようですが、現存するのは静岡県内では唯一、全国でも鹿児島県姶良市の凱旋門とこちらのニヶ所のみのという中々珍しい文化財です。
・名称:凱旋紀念門
・員数:一基
・所有者:渋川六所神社
・所在地:浜松市引佐町渋川三七九五
・明治三九年(1906)三月建立
・構造:煉瓦造り
・大きさ:幅3.2メートル 高さ3.6メートル
(概要)
 日露戦争を記念して、六所神参道の途中に築かれた。
 石造柱脚の上に、石柱を鋸歯飾としたレンガ造りの柱が立ち上がり、レンガ造りの欠円アーチを挟み込む。
煉瓦の積み方はフランス積みとする。
 大型の石製偏額を挟み、上部に江戸切子仕上石材の重厚な笠石を載せる。県内における初期煉瓦積
鹿児島県の山田の凱旋門は石造りのようですが、渋川の凱旋紀念門は石の土台の上に、煉瓦造りの柱やアーチを挟み込んでいます。石柱の部分には、地元の出兵した軍人の氏名と、この門の建造に際して寄付を行った人の名前と金額が記されています。
(https://shizuoka-bunka.jp/triumphal-arch/ より抜粋引用)
  
参道 表より         参道 内側より
 
 
中澤:【1970年代付近のエクステリアの動き】
〇1970年代のエクステリア資材特に金属メーカーの会社設立等の動きを調べ、その一部をメモした。
(門扉、フェンス、屋根、物置)
1955年(昭和30年) 日本文化シャッター(東京 現文化シャッター)が軽量シャッター(波型)の製作販売
1956年(昭和31年) 三和シャッター製作所(尼崎市 現三和シャッター)
1957年(昭和32年) 吉田商事(現YKKap スライドファスナ―の販売、昭和50年エクステリア製品販売)
1960年(昭和35年) 三協アルミ(現三協立山)
同年         沼田金属(スチールフェンス:2010自己破産)
1962年(昭和37年)日東紡が既製品カーポート販売開始
1964年(昭和39年)帝都建鉄工業(スチール製門扉、フェンス)→1978年(昭和53年)倒産
1966年(昭和41年)帝金 バリカー上下式(車止め)を開発し販売開始
1970年(昭和45年)淀川製鋼所(ヨド物置の販売)
同年         ㈱アルテック設立(東京 建築用装飾 1977年スライディング門扉)
1971年(昭和46年)日軽金がアルミ形材の門扉、ブロックフェンス販売(1979年 新日軽、現LIXIL)
1972年(昭和47年)四国化成が伸縮門扉の製造販売
1973年(昭和48年)淀川製鋼所がグレーチングの製造販売
1974年(昭和49年)東洋エクステリア設立(東洋サッシの関連会社)(門扉、フェンスの販売 現LIXIL)
1980年(昭和61年)タカシヨー設立(和歌山市 庭園資材販売)。1986年人工強化材「エバーバンブー」販売
同年         グローベン㈱(名古屋市 人口竹垣の販売)
 
〇その他1970年代の雑誌等より当時のエクステリア資材メーカー名、広告等を確認
・ガーデンライフ別冊に掲載された資材メーカー名の一覧表(1974年)
〇雑誌「建設資料」1977年4月号 掲載文「最近のエクステリアの資材の動向と今後のありかた」
(阿久津紀夫氏:エクステリア施工会社協会理事長の文章を箇条書きにて抜粋した)
・「エクステリアという言葉は最早一般的に普及した言葉である」
・戦後、進駐軍によって持ち込まれたブロックマシンの導入が契機となりコンクリートブロックが生産され発展した
・造園技術の余技ではなく、ブロック職という職種を生み出し、今外構関係の殆どはブロック工事業者の手に委ねられている
・外柵は建物様式の変化で軽いイメージの規格スチール門扉・フェンスの成長が著しく、現在ではアルミ鋳物、スチール製、アルミ製の3つ巴の時代だ。今後の資材の見通しとして、しばらくはアルミ鋳物、スチール製、アルミ製の3つ巴の時代が続く
・門扉・フェンスが半完成品(施工を伴う)である限り、施工店の商品決定権は続く
・門扉・フェンスに加えて物置、勉強部屋、温室、ガレージ等一家団らんの為のもの、スポーツを楽しむためのもの、老人、夫婦の庭など用途別資材が今後必要となる
 
以上
 
◆次回定例会予定:8月18日(水)18:00~オンライン会議にて
 
 
 
 
■2021年6月度 歴史委員会 定例会議事録
 
日時:2021年06月16日(水)18:00~ZOOMによるオンライン会議
出席者:浅川(ZOOMホスト)、犬塚、伊藤、蒲田(発表後退席)、中澤
 
◆連絡事項
1.6/10役員会ありました(内容は6/25の総会の準備)。
(総会への出欠及び欠席の場合は、表決または委任状等の返信を事務局へお送りください)。
2.須長委員長より「家庭の事情により当分の間、定例会への参加が困難」との申し出がありました。
 その間、中澤が代行を務めることにしました。ご了承ください。
 
◆議題:「各個人の研究活動テーマ」についての各個人の発表
蒲田:「江戸旗本屋敷のゾーニングを中心としたエクステリア調査」
   事例-3:井戸新八邸の紹介
概要 住所:小川町神保小路番外3)
   敷地:間口23.75間 奥行19.00間 面積451.25坪
   母屋:75.25坪(築年不詳)
   長屋門の様式、門から玄関ほぼ正対
   原図は、明治政府の役人へ貸与する目的にて建物を実測したので、建物以外はどの程度正確か不明
   (表座敷前の庭に、池が見える程度で庭の詳細は不明)
 
犬塚:佐倉武家屋敷 鏑木地区(以下 犬塚氏の提供資料より抜粋)
【佐倉の位置】江戸城の搦め手。万が一の場合の将軍の退避城(親藩を配置)
【築城者】土井利勝
【城の特徴】
 ・河川と印旛沼の湿地に三方向を囲まれた台地
 ・空堀と土塁で構成
 *関西の石垣、関東の空堀
 *関東のローム層、粘性土は急勾配の斜面造成が可能であり石垣以上に敵の侵入を防ぐ効果があった。
【鏑木地区】
 ・出城のようになった尾根状の台地。
 ・城を囲うようにL型とし突き当たりには戦時の拠点として社寺が配置
 ・防御を意識した武家屋敷地区となっている。
【街並み】
 ・通りに面した土塁と生垣(イヌマキ)で囲われた屋敷が続く
  (城内にも武家屋敷はあったがここは古写真をみると板塀)。
 ・土塁は戦時に敵の侵入を防ぐ、或いは安全に軍を移動させるためと想定される。
【身分に応じた屋敷の基準】
 ・藩政改革の一つ
 ・堀田正睦は天保の改革の時の老中
 ・この時代、海防の任で財政は逼迫していた
 ・屋敷は拝領するもので石高の変化に応じて引っ越しが行われた
【屋敷の特徴】
 ・玄関脇に客室を配置・客室に面した庭には池、景石、石造物等は残っていない
 ・屋敷の奥に畑を配置。農民に耕せる
 ・果樹を植栽
 ・矢竹の植栽、剣の打ち込み用樹木ユズ
 ・隣地との境界植栽防火? 
【藩校】
 ・蘭学を取り入れる
 ・医学を勉強させる*ニッケイの大木が2本残っている(薬木)日本での自生地は徳之島、沖縄など
【軍都】(明治以後)
 ・歩兵第二連隊が佐倉城内に配置される
 ・武家屋敷は軍人の寄宿舎として利用される(このため武家屋敷が保存された?)
◎今回の調査は、特徴的な街並みである外周の土塁と生垣(イヌマキ)は「馬に乗って通っても
 家の中をのぞかれないという遮蔽が目的」という解釈ではなく「敵の侵入を防ぐ防御ためではない
 か?」との思いから始まった。
 
浅川:「武家屋敷から現在の住宅地のエクステリアへの流れを考える」
 現在資料を整理中。
 
中澤:「戦後のエクステリア」を民間工事が主体とする造園組合について
日本造園組合連合会(民間工事を行う造園企業の日本最大の組織)設立趣意と経緯について(同会HPより)
(1)造園工事に係る職業訓練に関する事業
(2)造園技能者の育成に関する施策の研究建議
(3)造園工事業に係る技術の改善に関する研究建議
 昭和48年11月任意団体日本造園組合連合会として発足
 昭和49年 6月建設大臣・労働大臣の許可を得て社団法人設立
 昭和50年11月建設業法第27条の33により建設大臣に届出
 平成24年 一般社団法人となる
 以下平成6年(1994年)当時の同連合会の現状について概要を示す。
 
 坂本 裕彰(日本造園組合連合会)論文「造園技能者団体の組織と今後の課題
        (特集・造園産業論の構築に向けて)」ランドスケープ研究 58(2)、1994より抜粋
 ○1994年現在 組合員 40都道府県 約6000社
 (このうち約400社は、社団法人日本造園建設業協会に加入する)
 ○組合員の主な構成
 ・伝統的な日本庭園の築庭等を主に手がける,いわゆる庭師のグループ(造園業の許可を取得していない)
 ・建設業法に基づく造園業の許可を取得し,主に公共工事(公共・民間の両工事に従事する者を含む)を業
 とするグループ
 ○経営形態
 (1)施工業
 (2)材料販売業(樹木生産業)
 (3)設計監理業,
 (4)施工・材料販売業(施工部門と材料部門を共有)
 (5)管理業(植木の手入れなど)
 (6)総合建設業(土木・建築・造園を含む)
 
 ○経営実態調査では平成5年の稼働日数は264日
 ○完成工事高にみる公共・民間工事の構成比率
  公共工事36.6%,民間工事63.4%で,ここ数年ほぼ4:6の比率で推移している。
 ○従業員の年齢構成では
  40代が27.7%,50代以上が35.9%と、やはり高年齢化しつつある。
 
伊藤:「戦後のエクステリアの歴史」
 昔のエクステリアのカタログが公開されているのを見ると歴史を感じ、参考にもなる。
 「LIXIL ビジネス向けWEBページ」
 
◆次回定例会:7月14日(水)18:00~オンライン会議にて
 
 
 
 
■2021年5月度 歴史委員会 定例会議事録
 
日時:2021年05月19日(水)18:00~ZOOMによるオンライン会議
出席者:浅川(ZOOMホスト)、須長、犬塚、伊藤、中澤、蒲田(途中退席)
 
◆5/13(木)開催済み役員会について(議事録を共有掲示しながら中澤より説明)
・総会は6/25(金):オンライン(ZOOM)による
・各委員会のオンライン会議に使用している、ZOOM使用料も委員会費用として認められました。
 
◆議題:「各個人の研究活動テーマ」についての各個人の発表
中澤:「戦後のエクステリア」を、造園業界の推移を組合活動の記録から読み込む中(昭和50年頃まで)。
「60年のあるみ 緑の東京史(Ⅲ)」(東京都造園建設業協同組合創立60周年記念誌)の主な活動を抜粋
 ・戦後の法律整備に伴う、公園、道路緑化、イベント会場等の造園工事を造園会社への発注要望
 ・「単価、歩掛り」などについて各省庁、各行政、公団などと行った記録
 ・建設業の中に「造園業」を認めさせる交渉を、政治に対して「産・学・官」一体となって行った記録
 ・「造園施工管理技士制度」に対する取り組みなど
  *この続き、並びに民間工事を主体とする造園組合についても調べたい。
 
浅川:「武家屋敷から現在の住宅地のエクステリアへの流れを考える」
①事例報告-1大分県杵築市北台、南台(写真・図等の資料を除く)
 □城下町の歴史
  杵築市域は中世初めに大友氏の一族・木付氏が治めるようになり、その後細川氏、小笠原氏などの統治
を経て、正保2年(1645)能見松平氏7代の松平英親(杵築藩初代)が入部。以後、松平杵築藩は、明治維新まで10代にわたって続き、小藩ながらも譜代大名として独自の地位を与えられていた。途中正徳2年(1712)には地名の「木付」を「杵築」へと改めている。
  杵築城を中心として南北の高台に武家屋敷群、聞の谷に商人の町が形成された特徴的な城下町は正保年間に完成したとされる。18世紀末の作成と比定される「杵築城図(金子絵図)」には、杵築城から続く勘定場の坂上「北台」、塩屋の坂上「南台」に家老以下の主立った藩士が屋敷を構えていたとある。
また幕末期に描かれたとされる南台本丁通りの絵図「商台本丁武家屋敷町筋図」にも土塀と門で囲わ
れた武家屋敷らしい道路景観を見ることができる。
 □骨格
  南北に分けられた台地にあり、北部は北台、南部は南台と呼ばれている。杵築藩の上層藩士の居住区で、藩政期の地割を良く残した武家町である。近世武家住宅の主屋と門及び、その形式を受け継いだ近代の住宅を伝統的建造物として良く残し、高低差のある地形を生かして、坂を巧みに配した武家地は、石垣や石段、土塀などによって、雄大で独特な景観を形成している。
 □具体的な屋敷の紹介(以下の二つの屋敷を写真等の資料示しながら説明された
  武家屋敷 大原邸
  武家屋敷 能見邸
 
②事例報告-2 宮崎県日南市飫肥(写真・図等の資料を除く)
(重要伝統的建造物群保存地 昭和52年5月18日選定)(写真・図等の資料を除く)
 □城下町の歴史
  飫肥城は宇佐八幡宮の神官の出で、日向の地に武士団として勢力を伸ばした土持氏が南北朝時代に
築城したのが始まりと伝えられ、時代は下って、室町時代末期の長禄2 年(1458年)、九州制覇を
狙う薩摩の島津氏が、鎌倉時代から日向で勢力を蓄えてきた伊東氏の南下に備えて、志布志城主で
島津氏の一族である新納忠続を飫肥城に入城させた。
戦国初期は薩摩国の戦国大名島津氏の属城で、はじめ築城主の土持氏が治めていた。1484年に日向
中北部を支配する伊東氏が土持氏を裏切り飫肥に侵攻し、当時の当主である伊東祐国が戦死すると、伊東氏の本格侵攻を恐れた島津氏は、領土の割譲と戦の原因となった飫肥城主の交代によって急場を凌いだ。しかし、当主を失った伊東氏の飫肥城にかける執念は凄まじく、その後も伊東氏による飫肥侵攻が断続的に続けられることとなる。
  1567年、念願かなって飫肥城を奪取した伊東義祐(祐国の孫)は、子の祐兵に飫肥の地を与えた。
  しかし、1572年に伊東氏が木崎原の戦いをきっかけに没落すると、日向国全土を島津氏が治めるところとなり、飫肥も再び島津氏の支配となった。飫肥を失った伊東祐兵が羽柴秀吉に仕え九州平定に参加し、九州平定軍の先導役を務め上げた功績により1587年に再び飫肥の地を取り戻し、大名として復帰を成し遂げた。
  以後の伊東氏は、関ヶ原の戦いでは九州では数少ない東軍側として働くなど巧みに立ち回り、廃藩置県で飫肥藩が廃止されるまで一貫して飫肥の地で家名を全うした。天正16年(1588)から明治初期までの280年間飫肥藩・伊東氏5万1千石の城下町として栄えた。
 □骨格
  飫肥藩伊東家の城下町として、江戸時代初期の城下町としての地割りをよく留めている。
  街路幅が当時のまま維持されているために、街路に面した石垣、生垣、門などが保存される結果となった。
  酒谷川に三方を囲まれた城下は、正方形に近い地割りとなっており、飫肥城に近い方から上級家臣、中級家臣、町家、下級家臣の屋敷配置がなされていた。
  武家屋敷は格式に応じて門を構え、飫肥石や玉石の石垣の上にお茶等の生垣で囲まれている。
 □具体的な屋敷の紹介
  旧伊東伝左衛門家 武家屋敷
  上級藩士の武家屋敷で、飫肥城下では最も古い武家住宅である。建築様式から 19 世紀代の建物と考えられる。
  庭園や石垣も往時の姿を良くとどめており、庭園は平成 27 年 1 月 26 日に国登録記念物に登録された
 
 
犬塚:「江戸期の各地域における下級武士の生活」より
   事例として「長野県松代町の武家屋敷街並み」のついての報告(写真・図等の資料を除く)
 □詳細な屋敷を2例紹介
  ・山寺常山邸{平成20年「旧山寺常山氏庭園」として国の登録記念物(名勝地)}
  ・前島家(主屋前面の池、土蔵、三社を配置した敷地は江戸時代の武家屋敷景観を良好に保持)
 □松代街並みの特徴
  ・松代町は街並みの改変が少なかったため昔の町の骨格(城下町時代に形成された格子状型の水路網)がほぼ当時のまま残されている。
  ・松代は泉水網が発達しており、カワ(道路沿いを流れる水路)、セギ(水量の少ない水路、街区の背割線沿いを流れる)、泉水(各戸の庭の池とそれを結ぶ水路)のネットワ-クがつくられている。江戸時代初期は上級武家屋敷地区だけであったが、後期には下級武家屋敷にも整備された。
  ・3系統の水路は隣地に直接流れ数件を経由した後にカワに戻る循環型システムである
  ・農業用水、防火用水、夏の散水、冬の雪落とし、養鯉など多様な生活用水として維持されてきた
   *庭に水を引き入れる水路網の存在する武家屋敷は、他に群馬県甘楽町小幡、福岡県甘木市秋月にもあるが、このような多様なネットワ-クを構成している街並みは松代だけである。
 □松代武家屋敷庭園の特徴
  ・武士の日常の暮らしに密着した生活の庭
  ・泉水には観賞用だけでなく食用としての鯉が飼われた
   *松代では江戸時代から泉水で錦鯉を飼育してきた。金魚の飼育もおこなわれていた。
浅黄鯉(食用の鯉)は松代地方の特産
  ・泉水は洗い場を設け洗濯に利用した
  ・植栽には食用の果樹、カキ、ウメ、アンズなどが植えられた
  ・縁起物としてカシワが植栽されその葉は食べ物を包むためにも利用された
  ・周辺の山並みを景色として取り込んだ借景式庭園
 
須長:報告するまでには至っていないが、引き続き資料を読み込み中。
 
伊藤:新居宿など近場へ写真撮影などに行きたい。
 
次回定例会は、6月16日(水)18:00~オンライン会議にて
 
 
 
 
■2021年4月度 歴史委員会 定例会議事録
 
日時:2021年04月17日(水)18:00~ZOOMによるオンライン会議
出席者:浅川(ZOOMホスト)、須長、蒲田、犬塚、中澤
 
議題:1.「各個人の研究活動テーマ」についての発表(テーマ名は省略)
犬塚:①馬琴の井戸について
   馬琴の住居跡周辺を歩きながら周辺の高低差を現地確認し、さらに当時の切絵図、及び明治初期の
  地図等資料をもとに神田明神周辺の地形、平川の位置など総合的に考察すると、上水道井戸がなくて
  も堀井戸で水源は確保できたと推察される。
 
  ②弘前市中町の伝統的建造物群保存地区を訪問しての報告
   ・建築時期:寛政年間~文化年間(1789~1818 年)
   ・200~300石の武家屋敷の構成(約40坪の茅葺き住宅、敷地約700㎡)
   ・屋敷を囲むサワラの生け垣が特徴的
   ・何故サワラを採用したのかを引き続き調査していきたい。
 
浅川:兵庫県の町並みの紹介
  ①丹波篠山の武家家屋敷(住宅、門は茅葺き)安間家住宅資料館もその中の一つ
  ②豊岡市 出石城下町の町並み
 
蒲田:旗本 石川子之助邸の研究(東京都公文書館の資料)
  ・住所:駿河台観音坂15
  ・建築時期は未確認
  ・知行:200石~300石
  ・屋敷の広さ(敷地間口17.5間 奥行き20間)
  ・長屋門には、家臣3世帯の住居
  ・接客用の庭は、あまり広くない。
 
中澤:戦後のエクステリアの中で、近年の建設従事者不足を「資格制度の受験者数の推移」で改めて知った。
・1級造園施工管理技士の受験者数(受験者数がこの20年で≒1/3に減っている)
 学科受験者数2000年(8.468人)実地合格者(5,310人)、2020年(2.974人)実地合格者(694人)
・2級級造園施工管理技士の受験者数受験者数が、この20年で≒1/4に減っている)
 学科受験者数2000年(10.442人)実地合格者(6,925人)、2020年(2,448人)実地合格者(1,063人)
・造園技能者の受験者数(1・2・3級合計)は平成25年~平成30年までの6年間の平均受験者数4,755人
 この内平成30年の合格者2,686人(厚生労働省の発表)
・ブロック建築技能者の受験者数(1・2・3級合計)は平成25年~平成30年までの6年間の
 平均受験者数203人、このうち平成30年の合格者数120人(厚生労働省の発表)
・JPEXの建築コンクリートブロック工事士の受験者数(分子:合格者数、分母受験数)(同協会事業計画書より)
 平成27年(29人/30人)平成28年(9人/9人)平成29年(16人/16人)平成30年(16人/16人)
 
*施工管理技士不足を補う為、令和3年度の新試験制度により施工管理技士補制度が始まるとのこと
(経験年数なしでも受験でき、一次試験合格者に1級、2級施工管理技士補との称号が付与される)
 
*造園技能検定受験者も少ないが、エクステリア現場で必須となるブロック積の技能検定受験者が少ない。
 
◆議題-2:4月末までに事務局報告として求められている歴史委員会としての今年度のテーマは、
すでに2月度の定例会で決めた通り、
     1.「各委員ごとのテーマ」(詳細は2月度定例会議事録参照)
     2.小委員会としてのテーマは、発表済み「馬琴の庭を推理する」の訂正、資料の補足」
 
次回定例会は、5/19(水)18:00~ ZOOMによるオンライン会議
 
以上
 
 
■2021年3月度 歴史委員会 定例会議事録
 
日時:2021年03月17日(水)18:00~ZOOMによるオンライン会議
出席者:浅川(ZOOMホスト)、須長、蒲田、犬塚、伊藤、中澤
 
議題:「各個人の研究活動テーマ」についての発表
 
犬塚:テーマ「江戸期の各地域における下級武士の生活」について
①各地域の武家屋敷のリストは色々あるが、自分なりのリストアップをしたい
②馬琴は
・小鳥を飼育していたらしいい、・また薬草も栽培していたらしい。・ぶどうも植えていたらしい。
・江戸時代でも現代同じような流行があったらしい。
 
須長:テーマ「戦後の洋風デザインの造園、エクステリア」
・戦中から戦後について調べると、庭には食料以外は栽培していない、それもサツマイモ、カボチャ等
腹にたまるもので、そ菜類ではなかった。
このように時代によって、食料植物の種類さえ時代によって異なる。
・時間軸によって、エクステリアの要素がどう変化していったかを捉えるのも興味深く大切にしていきたい。(例えばシンボルツリー等)
 
浅川:テーマ1「地方の武家屋敷」について
・桐生の町並み(商家)を見てきた。
・来週は、新居浜及び香川徳島の歴史的町並み(武家屋敷以外を、四月には兵庫県の歴史的町並み(武家屋敷)を見てくる予定。
 
浅川テーマ2「戦後の宅地」
・戦前は、中流階層の分譲住宅であったが、戦後、特に高度経済成長以後は、一般大衆にも手が届く
ようになった。キーワードは「同一ではなく統一」
・先日、E&Gの学生と共に、35年前に手掛けた町並みを見てきたが、35年間の時間の変化を感じた。
 
 
蒲田:「江戸旗本屋敷のゾーニングを中心としたエクステリア調査」
①作図前に江戸の度量衡について整理した。
その結果・1間は、1,818㎜・江戸の間取りは、柱割・柱寸法は4.2寸角をベースに作図した。
②前回取り上げた旗本・池田家屋敷(表四番町、三千石)敷地面積1,307坪の平面図、配置図を
詳細に作図した図面の説明と紹介
③同様に別な例を作図予定。
 
伊藤:興味あるテーマ「戦後のエクステリア特にCADについて」「その他」
・戦後の年表を見ている状態
・日本の住宅には、アルミ材が多い 日本でプレハブ住宅が発展した事との関連性?
・金沢 足軽屋敷 明治以降の一戸建て住宅の原型という説明があった。庭についてはと?れた?け当時の状況残っているのか分からないか?、生垣やシンホ?ルツリーっほ?い玄関脇の木もあり
 
・静岡県焼津市「花沢の里」(江戸時代から明治期にかけての町並みが残る山村集落)の紹介
・渥美半島の住宅形態「納屋が囲む住居」
 
中澤:テーマ「戦後の造園、エクステリア業界推移」
①戦後に発生した巨大地震とブロック塀の構造基準の推移について
昭和25年に制定された、建築基準法施行令で扱うブロック造の「へい」に対する構造基準は、十勝沖地震、宮城沖地震、阪神・淡路大地震などの数年後に改正されて現在の基準内容と推移いている。
②建設業法の改正と資格制度も時代背景と共に変遷推移してきた。
・建設現場の機械化が進む中で、業界の強い要望で昭和35年「建設機械施工技術検定」が始まる
・土木施工技術検定(昭和44年)、管工事(昭和47年)、造園工事(昭和50年)
 
次回定例会は、4月14日(水)18:00~(ZOOMによるオンライン会議)
 
以上
 
 
■2021年2月度 歴史委員会 定例会議事録
 
日時:2021年02月10日(木)18:00~ ZOOMによるオンライン会議
出席者:浅川(ZOOMホスト)、須長、蒲田、犬塚、伊藤、中澤
 
議題:「各個人の研究活動テーマ」についての発表
 
犬塚:テーマ「江戸期の各地域における下級武士の生活」について
・松代、弘前の武家屋敷を文献ではなく、現地踏査をして、野菜畑など身近な生活の庭を見てゆきたい。
・以前に松代、弘前の武家屋敷を見学したが他の武家屋敷も現地踏査し、果樹、薬木、野菜などを植栽した生活の庭を見てゆきたい。
・地元の研究家等の話を聞くことを重ねてゆきたい。
・復元した時の平面図など地元の研究資料を収集してゆきたい。
 
浅川:テーマ1「地方の武家屋敷」について
・各地の武家屋敷のレポートがあるので収集、収録している状況。
・先日は、山口・萩へ行ってきた(現地の写真を紹介)。
・これまで見てきた街並みを地図に落とし込んでいる。
 
蒲田:「江戸旗本屋敷のゾーニングを中心としたエクステリア調査」
・旗本・池田家屋敷(表四番町、三千石)の各庭の分析作業の一例を示す。
・池田家屋敷は、敷地面積は1,307坪あるにも関わらず、接客のための庭園(御庭、庭)はかなり小規模。
・度量衡を確認し、平面図・配置図の作図を行い詳細な分析をおこなう予定。
 
浅川:テーマ2「戦後の住宅地について」
・切り口は、年代、社会状況、車
 
中澤:テーマ「戦後の造園、エクステリア業界推移」未だ年表を作成中で、その切り口を
・敗戦後の政治と社会状況(占領下の暮らし、住宅政策、土地政策)
・進駐軍工事の中の造園工事
・アルミメーカー、レンガ・ブロック製造会社の企業化
・ハウスメーカーの創立と団体設立
*今後は「エクステリア業」「メディア」「CAD」など
 
 
須長:テーマ「戦後の洋風デザインの造園、エクステリア」
・戦後の洋風デザインに影響を与えたと思われる、ワシントンハイツ等GHQ関連の文献調査中。
・作図担当をしたと思われる「小栗 玄」について知りませんか?
(農耕と園芸編集部 わが家の庭 : 作り方の手引 園芸手帖編 誠文堂新光社, 1952 内に
子供本位の楽しい庭 小栗玄 / p34 (0020.jp2)として執筆している、とのこと。
 
詳細は、国立国会図書館、デジタル版 請求記号629.2-Se118w  国立国会図書館書誌ID000000888665
 
 
伊藤:戦後のエクステリア特にCADについて興味がある。
 
 
その他連絡事項
・エクステリア学会の総会は、6月25日(金) 時間は未定(昨年までは、午後1時頃から)
オンラインでも参加できる模様
・活動報告会は、2022年2月開催予定
 
*次回定例会は、3月17日(水)18:00~(ZOOMによるオンライン会議)
 
以上
 
 
 
■2021年1月度 歴史小委員会議事録
 
日時:2021年1月13日(水)18:00~ ZOOMによるオンライン会議
出席者:浅川、須長、伊藤、犬塚、中澤
 
議題;テーマ:『発表済み「馬琴の庭を推理する」の訂正、資料の補完』
 
中澤よりこれまでの作業経過とこれまでの話題点に説明する。
1.井戸の位置(丸型桶、洗い場、釣瓶がついていたか?)
東京都水道歴史館(TEL03-5807-9041は1/11までの休館をコロナの影響で2/7まで休館延長)
ここの資料は、相当古いものまで揃っているようです。(取材は事前の電話でとのことです)
 
2.縁先手水鉢(現データは、つくばい)→縁側から使用できるように
3.池の大きさ
4.南側にまで縁側があったか
5.敷地の大きさ
6.間取りなど
 
犬塚氏より
・東京都水道歴史館へ行って、上下水道の引き込み位置を問い合わせしたい。
・同様に、現地に行って周囲の敷地高低差などを確認したい。
(池を掘ったとき、自然に水が湧き出る、流れ出る要素がなかったか?土質はどうだったか?)
・竜居先生の文章を読むと、イメージが違う。
 
竜居竹之介著 おりおりの庭園論 庭を通して日本の文化を考える 建築資料研究社 1991年
内に滝沢馬琴の庭の池についての記述がある。同書P59-60 "好み"次第で作庭者も交替 の文章より
 
『もちろん息子が釣ってきた魚を放つ目的などもあるから、そう浅くするわけにはいかない。それはよいとしても水の便が悪いからそうそう水位は上げられない。座敷の中から水を見て涼むなどはとんでもない話で、
ちょうど蓋のない穴蔵を見るようだった。夏の渇水期ともなれば水が減るから筧を用いて井戸の水を汲み入れるという騒ぎである。
 おまけに冬は霜がきつくて土が凍てつき、それが原因で池の縁の土が崩れてしまう。これは危ないといって周囲に柵をしたり、芝を植えて土坡を養生すると来ては、手のかかること甚だしい。
 ところがこの池などは庭造伝とまったく見関係で、馬琴自身の好みでつくっているのである。現実の江戸ではこんな思いで不細工な池をつくっていたのに、庭造伝そのものにはこうしたてのかかる池づくりのサンプルはまったく姿をみせていないのだ。
 実証派、考証派として著名な馬琴ともあろうものが、なにか事を起こすについて研究しないわけはなくこの池の場合もテキストらしきものは物色したろうが、"好み"のものに出会わぬまま、自身のデザインで出入りの植木職を駆使してつくりあげたのであろう。
 しかし苦心してつくったこの池、どうも息子の病気の原因らしいということで結局、埋めてしまった。ところが方位学の面から見て、埋め立てた日時がわるかったと知るや、また別の吉方の土を取り寄せて一部埋め立てのやり直しをしたりしている。つまり、馬琴が池をつくるについては、方位学の力を心底、頼んでいたといえるだろう。見方を変えれば、自身のある知識人の馬琴にとっては、庭をつくることよりも、つくること、できた庭が吉凶にどうかかわってくるかの方がはるかに大事だった。「改過筆記」という著書に記されたこの池の事件を見ると、その辺の馬琴の心の動揺が手に取るように伝わってくるのである。・・・・・・・・・』
 
・東京都水道歴史館へ紙面(FAX)で問い合わせをしましょう。 → 回答はこちらから
 
以上